つじもと清美 公式 参議院議員 立憲民主党(全国比例代表)つじもと清美 公式 参議院議員 立憲民主党(全国比例代表)

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2006年4月6日 日本国憲法調査特別委員会

2006.4.6

議事録

164-衆-日本国憲法に関する調査…-7号 2006年04月06日

辻元委員

社会民主党・市民連合の辻元清美です。皆さん、おはようございます。

本日は、憲法や国民投票制度と法治国家の関係について意見を述べさせていただきたいと思います。

前回の三月三十日の本委員会で、自民党の委員の方の中から、日本の憲法と法治国家の関係についての問題提起がありました。これは、アメリカのハーバード大学の研究所で憲法改正の問題について議論されたときのこととしてこのようなことが報告されたことをもとに、ちょっと考えていきたいと思います。

日本は一体法治国家なのかということを言われてしまった、憲法を変えずに限りなく解釈を広げていって対応している、これで一体法治国家なのか、時には超法規的措置みたいなことを平気でやったりする、このようなことを指摘されまして、何と答えていいのかわからなかったという。私は、この御報告は日本の憲法や国民投票制度をめぐる現在の議論の状況を考える上で大変興味深いと感じました。

ここで言う、憲法を変えずに限りなく解釈を広げていって対応しているとか、時には超法規的な措置みたいなことを平気でやるという指摘は、一体何のことを指しているかというところから考えていきたいと思います。

憲法をめぐる議論の中でこの指摘が最もよく当てはまるのは、やはり憲法九条についてではないかと考えられます。アメリカなど海外の研究者から見ると、憲法九条をめぐる状況は、憲法の解釈の枠を超えているのではないか、超法規的措置を時々とっているのではないかというように映るから、こういう発言が出たのではないでしょうか。

さて、それではだれが主導してこのような状況をつくり出してきたのかを次に考えてみたいと思います。それは、紛れもなく、長年内閣を担当してきた政権ではないか、自民党を中心とした政権ではないかと思うのです。

私たちの立場から見れば、自分たちで憲法の解釈を限りなく広げ、超法規的な措置を積み重ね、法治国家としての根幹を崩しているというような指摘をされる、そして、海外から日本は法治国家とは言えないのではないかと指摘されたと憂うというか、それを根拠にしてしっかりとした法治国家になるために憲法改正が必要だという主張につなげられているようにお見受けするんです。私は、この論理に大きな矛盾を感じました。

憲法は国会議員や内閣を縛るためのものであることは何回も議論されております。それなのに、憲法解釈の枠を自由に拡大し、時として超法規的措置と思われるような措置をとるというのは、憲法による縛りを国会議員や内閣が無視してきたことです。法治国家では、何よりも国家機関が法に従わなければならない。それなのに、憲法による制約を認めないというのでは、法治国家ではないと思います。

しかも、これまで法治国家であるかと海外から疑問を出されるような状況をつくり出してきた内閣や国会議員が、自分たちが積み重ねてきた超法規的と言われるような措置などに合わせた憲法につくりかえないと法治国家として認められないというような論理の方が、私は法治国家を軽視した乱暴な主張ではないかというふうに思うんです。このような論理はよくお見受けしますけれども、このような論理の立て方で法治国家の重要性や憲法改正の必要性を説くところに、現在までの憲法論議を健全なものにしてこなかった原因があるように思うんです。

そして、憲法改正が必要だ、そのための手続法が必要だという議論の中にも、このような論理をベースにして主張を展開する方々を多数お見受けするように思います。そういうような状況で、どうしても懐疑的にならざるを得ない人たちが出てくるのは当然じゃないでしょうか。中立的な制度としての必要性を論じられている方々も多数いらっしゃることは、私も承知しております。しかし、最高法規をないがしろにして法治国家の意味を軽視してきたと思われている勢力が中心になって、憲法を変えるための手続法をとにかく早くつくらなければ法治国家として恥ずかしいと声高に訴えられても、主客転倒、まず隗より始めよという反応が出てくるのは当然だと思います。

このような憲法議論をめぐる矛盾した背景を引きずったまま、そして、矛盾した論理を盾にとって、さあ、国民投票をつくろうと主導しようとしている人たちが混在する中で、そんな話にやすやす乗ることはちょっとできないとか、今なぜ急いでつくらなければならないのかと反対または慎重な立場をとる声が出るのは当然であるということを強調したいと思います。

終わります。

辻元委員

先ほど愛知委員から先輩として私の将来を案じるアドバイスをいただきまして、本当にありがとうございます。私は、愛知委員の御主張と私がそれに対して反論というような形で申し上げた主張が、戦後の憲法論議の中で一つの中核をなしていたのではないかと思うんです。それをもって、私は先ほど健全ではない議論ではないかと感じるということを申し上げたんです。その意味をもう一度ちょっと深めたいと思います。

そして、滝委員からは、先輩として、両方の意見がわかるというような意見もいただきました。これは、やはり戦後の議論の一つの中核であったかなということを裏づける御発言だったんじゃないかと思うんです。

私は、政治家としての自覚、これは与党を担当していたということを先ほど葉梨委員からもおっしゃっていただきまして、愛知委員ともさまざまな政策を、こんなののんでええんやろかと思うようなことも、一緒に議論し思い悩んだ経験があります。ただ一方、やはり政治家としての自覚の中には、憲法の枠の範囲内で特に政権内閣、権力は政治を行うことに努めなければならないということも大きな基本だと思うんです。あらゆるテーマについてこれは言えると思います。

先ほど、石破委員から三分の二の定義ということが出ましたけれども、私はちょっと石破委員とこの定義の解釈が違いまして、これは多数、過半数をとった時の政権でも、過半数でできないことを憲法で定めておくという、多数の専制を防ぐという立憲主義のもとでの考え方だと思います。

ですから、政権がかわっても、それから時の多数が暴走しようとしても、政治の混乱を防ぐという歯どめを憲法がかけているんだという認識です。

さて、そういう中で、私は、現実はこうだったから、解釈でやるのはおかしいから、だから改憲とか、いや、それをあんたたちがやったんだろう、これは余り健全じゃないと思っているんですね。先ほどあえて反論しましたけれども。私は、今、石破委員との間で一回徹底議論しようというテーマがありまして、石破委員は集団的自衛権を認めて海外での武力行使まで容認という立場にお見受けするんですね。しかし、私は、集団的自衛権は認めず海外では非武装で。この中身で憲法論議をする。どっちの将来のビジョンがいいだろうかということで、これに立脚したらこういう憲法だ、これに立脚したら現憲法だ、これが健全な議論だと思うんです。

ですから、解釈を積み重ねることはもうおかしいから改憲しようという論理で改憲を主張しない方がいいと思っているんですね。そうすると、あんたたちがやったんじゃないかと。そういうのはすごい不幸だったと思うんです。ですから、私は、中身で、こういう憲法とこういう憲法はどうなんだ、こういうビジョンとこういうビジョンはどうなんだという、それが健全な憲法論議ではないかと思うんです。ですから、私は、あえて愛知委員に反論するときに、健全ではないという言葉を使った次第なんですね。

さて、そういう中で、解釈改憲ということが一つのテーマになっておりますけれども、自民党は新憲法草案というのをお出しになっています。例えば、今九条をめぐるというところが一つの中核ですけれども、そこを見ますと、自衛軍の構成とか、どういうとき海外に出るかなど規定されているところは、全部法律によって定めるとなっているわけです、この案では。

私は、ある自民党の議員の方に聞きました。イラクに今自衛隊の人が行ってはるけれども、サマワに辛うじているイギリス軍のようにアメリカと一緒に前線まで行かないのは、憲法九条がきいているからと違いますかと。今の自民党のお出しになっている新憲法草案だと、イギリス軍みたいな形で行くんでしょうかと。そうしたら、そのときになってみないとわからないとおっしゃったわけです。

そのときどういう法律をつくるかによると書いてあるので、そのときの政権がどういう法律をつくるかだと解釈したら、いわゆる憲法九条の戦争放棄に基づいて日本は武力行使はしないという歯どめを外して、かつ、そのときの政権による解釈や法律という、さらにあいまいな、歯どめを外したところでのあいまいな判断による運営がなされる危険性をはらんでいるというようなことも、私は率直に申し上げて新憲法草案を拝見したときに非常に危惧を抱いた点なんです。

ですから、先ほどの解釈によってというところの解釈をして、そして、それを根拠に改憲だ、それは現実に合わせていくんだということを容認してしまうと、私は、日本の政治にとって不幸な事態を招いたり、立憲主義に立つ国として、先進国の一員として海外からいつまでも日本は一体どうなっているんだと言われかねないなという危機を新憲法草案の中などにも読み取ったということもあり、先ほど発言をさせていただきました。本当に貴重なアドバイス、ありがとうございました。

以上です。