今年の3月10日に、地元・大阪府高槻市で地域福祉に取り組む一般社団法人「タウンスペースWAKWAK」の設立記念シンポジウムがおこなわれ、辻元清美が記念講演をおこないました。
高齢者や障がい児者・子育て世帯・若者への支援、生きがいと居場所づくりなど、地域に根ざした活動に18年前から自発的に取り組んできた「WAKWAK」。
その活動は、全国どこの地域でも参考になると考えます。
かなり長いですが、NPOが社会を牽引していくこれからの日本について話した当日の講演の内容を、ここに紹介します。
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記念講演「新しい公共」 辻元清美衆議院議員
日本は長く、「自助」と「公助」の社会でした。例えば介護は今まで、家の中で嫁が看るものでした。それが「自助」です。
しかし、専業主婦が子どもやお年寄りの面倒をみるという家庭は少なくなりました。
社会構造が変わってくると、これまで通りではいかなくなり「介護保険」ができました。
高齢者は社会が看るもの、そして、子どものケアも、家族はもちろん社会全体でもみていこうというようになってきています。これが「公助」。
しかし高齢社会、さらに低成長時代で「公助」もパンク寸前。「自助」をもっと頑張ろうといっても限界がある。そこで出てきたのが「共助」です。
「自助」「公助」をこれ以上伸ばすのは大変。
『共助』を伸ばして、みんなで発展させていくことで問題を解決していく。行政も個人も一緒に助け合う、そして自分たちがNPOや一般社団法人をつくって「共助」の活動を広げていく。「取得しやすく、身軽に動ける」との話がありますが、これも、公益法人の法律改正で実現しました。
私はずっとピースボートで市民活動をしてきました。阪神淡路大震災で多くの助け合いの市民活動のネットワークができ、「NPO法を作るんだ」ということで16年前に国会に送ってもらったのです。
市役所とか国の仕事でもない、「共助」という地域でみんなで活動して課題を解決しやすくする、そのような組織が活動しやすい社会にしていこうと出来たのが「NPO法」です。私は1996年に当選したのですが、その2年後の1998年に法律が成立しました。今から14年前です。
当時は、まだまだ理解がなかったんですね。「NPOって、なんじゃい」、市民活動というと「何か怪しい集団ちゃうか」と怪しまれて。
今までだったら、「おじいちゃん、おばあちゃんの介護が大変やのに、高槻市は何してんねん!」「市役所へ怒鳴りこみに行ったれ!」とやるわけですよ。「デモかけたれ!」みたいに。
そういう「要請する側とされる側」、「自助と公助の対立」であったり、「自助から公助への要求」だけではなくて、財政も厳しいし、一緒にどうすれば問題が解決するかを考えていこう。ところが、14年前の当時は、まだ対立型だったわけです。「自助が大変や、公助なんとかせえ!」と。公助は「自助が大変やいうて、うるさいなあ!」と。
私は「『NPO』という新しい『共助』の形で、社会を変革していく」、あるいは、「今の高齢化社会、低成長社会の時代には『共助』というセクターを大きくして乗り切っていくしかない」と説得して回ってたんです。
なかなか理解してもらえなかったけれど、何とか「NPO法」が誕生しました。
私たちは、初めは「市民活動促進法」という名前で法案を作りました。
ところが、国会の古い頭の人たちは「こんな名前はあかん」。「市民活動って、世の中を騒がせるような活動と違うんか。名前を変えろ」と、自民党の参議院のドンから言われたんですけど。「じゃあ、何という名前だったらいいですか?」というと「奉仕活動促進法だったらいい」というわけです。そういう対立だったわけです。
確かに奉仕という面もあるんだけど、それだけじゃない。よくボランティアと言われますがボランティアというのは自発的という意味です。ただ働きではないんです。
NPOで法人を設立して、高齢者のケアや子育てやまちづくりに取り組むことで、寄付を集めたり、事業をしたり、行政から仕事の委託を受けたりしながら、自立させて、そこで新しい仕事を生み出して、地域の人たちが働く。そして、さらにボランティアの人たちが手伝うという新しい産業です。コミュニティビジネスとも言い換えられます。
14年前当時から、アメリカではGDP(国内総生産)の7%をNPOセクターが一つの産業のように経済活動を伴って社会問題を解決していました。
障がい者の作業所であったり、高齢者のディサービス等、行政がやることもありますが、「自分たちでつくっちゃえ」と。しかし、今まで「自分たちで作る」といっても法人格をとれなかったり中途半端だったわけです。そうじゃなくて、一般社団とかNPOとかみんなで集まったら一つの法人として対外的に取引をしたり、行政と対等に話したりとかができる仕組みができたのです。
「市民活動という名前の法案では通せない」ということだったら「『非営利活動促進法』という無味乾燥な名前やったらええやろ」と。「非営利」というのは、ただ働きという意味ではありません。利益を分配しないということです。
儲かったら株主に利益を分配するとか、役員に分配するとかはしない。
利潤が出たら、次の事業にどう使うかをみんなで決めて次の活動に使っていくという、ルールはただこれだけです。
「非営利活動促進法」という法律でよかったんですが、当時、官庁の認可のもと社団法人など「古い公共」というのがあったんです。それで、「特定」とつけて「特定非営利活動促進法」というややこしい名前になったんです。
「古い公共って何か」というと、お上のひも付き団体、天下り団体とか。福祉は、厚労省の天下りの指定席になっていたわけです。福祉関係の財団法人とか社団法人とか。「国から補助金やるさかいに国のいうこと聞かんかえ」とチェックを受けて、トップとか役員に天下りが行っている。「そんなことで、世の中の問題が解決できへんやないか」とそこでかなり対決したから、「あいつは何か過激派や」とか「日本を転覆させようとしている」とか、当時はものすごい抵抗勢力がいていじめられました。
しかし、WAKWAKを立ち上げたのは、国から指図されたわけでもなく、高槻市から「やらんかえ」といわれたわけでもなく、自分たちで自分たちのまち「富田」を良くしようと自発的に集まってきて、理事や役員を決めてお金も集めてどうしようかという話です。
ところが、今まで国から補助金を出して運営している団体も非営利団体といわれていたので、涙をのんで名前に「特定」という言葉がついたんです。
「株式会社」「有限会社」とかありますやん。
ピースボートのとき、名刺を持って「船貸して下さい」と行っても「ボートピープルか」と言われるんです。しかし、「株式会社ピースボート旅行社」と書いてあったら、「旅行社の方ですか、まあまあ」となるわけです。「なんで株式会社やったら信用されて、何もなかったら信用されへんねんや」と当時から憤慨していました。
「NPO法」ができて現在、42,900団体。今、被災地でもNPO法人は新しくどんどんできています。
しかし、「NPO法人ができたけれどお金がない」というのが永遠に付きまとうわけです。私らも、カレンダー売ったり途上国の民芸品を仕入れてリュックで担いで講演するときは会場の後ろで売ってました。
そんな厳しい状況の中、各地で4万以上のNPO団体が立ち上がってきたわけです。そして、国会の中でも認知度が上がってくるわけです。
今、超党派でNPO議員連盟を作っています。
共同代表は自民党の加藤紘一さんと民主党の江田五月さんにしてもらっています。総理経験者にも理解してもらわんとあかんということで、鳩山由起夫さんと福田康夫さんに顧問になってもらって、副代表に各党全部入ってもらい、私は幹事長を務めています。
事務局長は、自民党の中谷元さん。この人は、自衛隊出身者で元防衛庁長官です。中谷さんがいつも言うんですよ。「元自衛隊の僕とピースボートの辻元さんが幹事長と事務局長で力をあわせてるんやからNPOはすごいぞ!」って。その通りなんです。
どういうことかというと、「多様な活動が多様な人々によって多様に展開できる社会がいい社会」なんです。例えば、自衛隊出身者の人たちがそのノウハウを活かして、(よく右とか左とか分類がありましたが)そういう活動が自由にできる。実際、カンボジアなどで対人地雷除去の活動をしているNPOがあります。多様な人の生き方を選択できる社会、政治はそういうことをしやすくする仕組みを作ることだと思います。政治がこの活動は正しい、この活動は間違っていると言った途端に、おかしな社会になる。
「小泉さんのときに総理、総理」と言ったのを覚えてはりますか。
集団的自衛権という安全保障の問題を小泉さんに質問したのに、小泉さんが答えようとせず、防衛庁長官であった中谷さんが答えようとしたので防衛庁長官ではなく総理に答えてほしいので、「総理、総理」となったんです。
だから、中谷さんが私に言うんです。
「総理、総理と言われた僕が野党で、総理、総理と言った辻元さんが総理補佐官や」て。
政治も変わったんです。永遠の野党というのは成立しないんです。政権交代の時代で、小さい政党であろうが批判だけしていては成り立たないんです。
昔は、社会党と自民党があって自民党が60何年与党にいて、社会党は大きな政党でしたが過半数を取るだけの候補者を立てなかったんです。与党になることは考えずに、ずっと野党で批判と要求をして与党がちょっと譲歩してという政治だったんです。
しかし、最近は違う。小さな政党でも連立政権に入ってキャスティングボートを握って力を発揮できる時代です。要求したり批判したりした後、「じゃあ、あんたらどうするねん」というのがないと物事は解決しない時代になったんです。
加藤さんが代表で、私が幹事長、中谷さんが事務局長で一緒にできるのは、NPOのみんなの頑張りなんです。4万9,000にもなるNPO 団体の力なんです。特に東京・大阪はたくさんのNPOが活動しています。
ところがお金がないという永遠のテーマをどうするか。政権交代したんやからと頑張りだしたのが鳩山由紀夫元総理です。
鳩山さんは「新しい公共円卓会議」を官邸に作りました。それを引き継いだ菅政権、野田政権で「新しい公共推進会議」というのが総理官邸に設けられています。内閣総理大臣、官房長官、官房副長官が座り、その後ろには担当副大臣が座っています。そこに、NPO団体が座っているわけです。大阪から、大阪ボランティア協会の早瀬昇さんとか、この間まで「ビッグイッシュー」代表の佐野さんも会議に出ていました。私も出席しています。
この会議は、首相官邸でやっている。総理も官房長官も担当副大臣も必ず出る会議なんです。
今までは、政治の外から「NPO法を作れ」と言って要請活動していた人たちが、今では、定期的に首相が一緒に会議をして物事を決めていっています。
そして、何を決めているかというと「寄付集まりやすいようにしたれ」とか様々な課題を全国から吸い上げて出しています。「じゃあ、税制改正しよう」と政府の中で始めました。これが、政権交代の大きな成果です。
「公助」「自助」だけではやっていけない。「共助」を増やしていこう。
その意味で、この会議は大きな鍵。特に、大震災後、寄付を集まりやすくしようと大きな力を発揮しました。
アメリカは寄付社会で寄付文化が育っています。
年間、どのくらいの寄付が集まっているか。アメリカでは、大体、25兆円といわれています。日本の今年の国家予算(一般予算)は90兆円ぐらいです。イギリスでも寄付が3兆円近く、日本は数千億円。震災で少し上がりますが。
今回、大幅な税制改正をしました。1万円寄付したら、半分の約5千円が税金で還ってくる。税額控除を導入したんです。そして、寄付を受けることができる団体の要件を大幅に緩和しました。
東日本大震災が起こり、そして、今、東北はどうなっているか。
当初、多くのボランティア団体が入りました。
外からの応援も必要なんですが、永遠に支援できるとはなりません。石巻に行ってそのまま帰ってこないうちの秘書みたいのもいますが。
例えば、地域のNPOなどが連携をとって「いわて連携復興センター」を立ち上げ、県から委託事業をうけて「仮設で孤独死する人を防ごう」とか、「心のケア」とかを岩手県と岩手のNPO団体が一緒になって事業展開しています。そして、NPOと行政が行う協働事業に国がお金をつける。
福島は六つのエリアに分けて、「絆づくり支援センター(6か所)」が中心となって、原発で避難している人たちの支援を福島の人たちが直接行う。そこに、外からのNPOの支援も入っていく。
宮城県は、大震災直後の4月4日に宮城県、自衛隊、政府、NPO、社会福祉協議会などで被災者支援連絡会議が立ち上がりました。今や、私と中谷さんが仲がいいだけではなくて、国と自衛隊とNPOが一緒に情報交換しながら災害支援をしているんです。自衛隊が撤収してからは、自治体とNPOが協働して連絡調整会議で活動しました。
私は補佐官として何をしていたかと言うと、こういう支援体制を作ってたんです。国から被災地に行って、市と自衛隊とNPOをまとめて、被災地を回っていました。
ただ、うまくいくこととうまくいかないことがあります。うまくいかない事の方が多いです。作ってもなかなか、支援が進まない厳しい現実との格闘でした。
地元の人を雇用して仕事づくりもしていこうと思って、予算を付けて出来るだけ多くの人に生活相談支援員として働いてもらうこともしていますが、悩みも多いんです。
私は「NPO活動というのは悩みの連続や」と思うんです。
悩まない時は来ないですよ。なぜかというと、みんな、さらに良くしようとがんばるからです。NPOは「こんなもんでええわ」というのはないんです。「なんでそんなに頑張るんや」いうても、さらに頑張るんです。ですから、面白いしやりがいがあるんです。
私は「居場所と出番と絆がある社会」。「ひとり一人に居場所がある」「ひとりひとりの出番がある」、そして「絆が実感できる社会」はいい社会やと思うんです。そして、多様性。「みんなで生きる、みんなが活きる」社会を目指しています。
新しい公共と言われる「共助」のセクターが、これからの社会をよくしていく牽引力になると考えています。
(了)