民主党「東日本大震災対策本部」福島県対策室室長代理に就任した私は、3月26日早朝の新幹線で福島へ。9時から福島県議団などと協議し、午後には福島県庁へ。
「福島県外に避難した方々の支援はどうなっていますか」と私が尋ねると、「四億円の予算をつけて、避難者支援を行うNPOなどの支援に取り組む」とのこと。会議終了後、福島県社会福祉協議会を訪ねて意見交換。ボランティアで仮設の見守りなどを行っているということだった。
この日は仙台に泊まり、翌朝に宮城県社協で意見交換。「被災地ごとに状況を把握してサポート体制を持っている」ということだった。菅政権で私たちがつくった緊急雇用の枠組みを使い、社協が地元の人を雇用する「生活支援相談員」の活動が実を結んでいるという。
ただ、この予算は単年度。息長い被災者支援のためにも、基金などをつくって五年間は継続させてほしいとの要望を受けた。持ち帰って、政府と相談します、と私。
その後、南三陸町へ。南三陸町の診療所施設と町役場庁舎の竣工式に出席するためだ。
思い起こせば昨年の六月頃、私はこの「中間的な診療施設」をつくるための調整に奔走していた。
この間の経緯は今週発売の「週刊金曜日に詳しく書いたが、町の機能がほとんど流された南三陸町では、町役場はプレハブ、病院もプレハブだった。電気も水道もなく、トイレも狭い仮設。待合所もないから、雨がふったら病気のお年寄りが傘をさして野外で行列をしているという。
本格的な病院をつくるのは時間がかかるため、中間的な診療施設がほしい、と町は県に要望していた。しかし、県は「医療支援のお金は国から出ているが、すべての市町村から要望が出そろうまでお金は出せない」と回答していた。
私は、政治判断が必要だ、と考えた。すべての病院が流されてしまったところは優先して出せばいい。「公平性の原則」よりも「いのち」を優先させるべきと考え、関係機関を走り回った。それだけに、何とか県からお金が下りて、完成にこぎつけたことは本当に嬉しい。
竣工式で院長の言葉が胸に残っている。「内科の医者二名、外科二名、歯科と整形外科が一名ずつ。二四時間体制で、トレーラーハウスに寝泊まりして診療を行った。電気もなく真っ暗で、心も真っ暗ななか、一年間続けてきた。フラフラになりながら、明けない夜はないと信じてやってきた。いま、少しだけ光がさしたと思う」と。
私は、福島市で行われた会議で関係省庁の官僚たちを前にこういった。「予算をつけて法律をつくれば終わりではなく、お金が生きた形で使われているか気を配らなければ。被災者の皆さんの役に立っているか見届けるまでが国の仕事です」
予算も法律も制度も、自分たちのつくったものが現場でどう生かされているのか、これからもしっかり確認していきたい。